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一覧はこちらとある保因者の話(9話)

とうとう、その日がやってきた。
彼に血友病のことを話す日。
準備はした。
病院でもらった冊子も読んだし、伝えたいことはノートにまとめた。
わからないことがあれば、主治医の先生が説明してくれるとも言ってくれた。
叶人だって協力してくれる。
だから、準備万端!
……と言いたいところだけれど。
胸の奥に、何かが引っかかっている。
キュッと締めつけられるような、なんとも言えない感覚。
緊張?不安?
たぶん、両方だ。
朝ごはんもそこそこに済ませて、身支度を始めた。
鏡の前で髪を整えながら、何度も頭の中で話す順番を確認する。
まず、叶人の病気のこと。
それから、血友病が遺伝に関係する病気だということ。
そして、私自身が保因者かもしれないということ。
……うん、大丈夫。
何度も練習したんだから。
でも、いざ彼の顔を思い浮かべると、急に自信がなくなる。
もし、困った顔をされたら?
もし――。
「今日はいい天気だね~。」
突然、母の明るい声が聞こえた。
振り返ると、母がキッチンに立っていた。
いつもより、少しだけ声が大きい気がする。
たぶん、母もわかっているんだ。
今日、私が彼に話そうとしていることを。
「……うん、そうだね。」
私はバッグを肩にかけた。
「今日、彼に会ってくるね。」
母の顔を見ずにそう言った。
本当は、ちゃんと目を合わせて言いたかった。
「今日、彼に血友病のことを話してくる。」
そう言って、堂々と家を出たかった。でも、なんとなく言えなかった。
母は何も聞かなかった。
「気をつけてね。」
いつも通りの声だった。
「うん、行ってきます。」
玄関のドアを閉める。
外は本当にいい天気だった。まぶしいくらいの青空。
こんな日に、こんなに緊張する話をするなんて。
なんだか、空と私の気持ちがちぐはぐで笑えてきた。
待ち合わせは、いつものカフェ。
学生時代から何度も来ているお店だった。
試験が終わった日。
就職が決まった日。
何でもない休日。
いろんな話をしてきた場所。
でも今日は、今までとは少し違う。
時計を見ると、約束の時間より二十分も早かった。
早すぎたかな。
そう思いながら店内をのぞくと、窓際の席に見慣れた姿があった。
あれ?もう来てる。
私は少し驚きながら近づいた。
「あれっ、早く来てたんだ。」
彼は顔を上げて笑った。
「うん、なんか早起きしちゃってさ。」
テーブルには、コーヒーと食べかけのトーストが置いてあった。
「天気もいいし、たまにはカフェで朝ごはんもいいかなって思って。」
「へえ~、いい休日のスタートだね。」
私は少しおどけた調子で言った。
「でしょ?」
彼も笑った。
いつもの彼だった。その笑顔を見たら、少しだけ安心した。
私はアイスカフェラテを注文して、向かいの席に座った。
「今日、何時に起きたの?」
「六時くらい。」
「早っ。おじいちゃんみたい。」
「失礼だな。」
そんなくだらない会話をして、二人で笑った。
仕事のこと。
最近見た映画のこと。
最近結婚した友達のこと。
いつもと同じように話していると、なんだか今日ここへ来た目的を忘れてしまいそうだった。
いや。
本当は、忘れたかったのかもしれない。
バッグの中には、病院でもらった冊子が入っている。
その存在が、ずっと気になっていた。
今、出そうかな。
いや、もう少し普通に話してからにしよう。
でも、いつまでも先延ばしにはできない。
そんなことを考えていると、彼が急に真面目な顔になった。
「あのさ。」
「ん?」
「ちょっと聞いてもいい?」
その声に、思わず背筋が伸びた。
「この前、ご両親に挨拶に行きたいって話したじゃん。」
「うん。」
「その時さ、ちょっと困ったような顔してたよね。」
……え?
彼はコーヒーカップを置いて続けた。
「俺、あれからずっと気になってて。」
「何かまずいこと言ったかなって。」
「もしかして、まだ結婚の話を進めるのは早かったのかなとか。」
私は慌てて首を横に振った。
「違う、違う!」
思ったより大きな声が出てしまった。
隣の席の人が一瞬こちらを見た気がして、私は声を落とした。
「そういうことじゃないの。」
彼は少し安心したような顔をしたけれど、まだ何か聞きたそうだった。
「じゃあ、何か困らせちゃった?」
私は言葉に詰まった。
困った。
確かに、困った。
でも、彼が挨拶に来てくれることが嫌だったわけじゃない。
むしろ、すごく嬉しかった。
ずっと一緒にいたいと思っていた彼が、結婚を真剣に考えてくれている。
それは本当に幸せなことだった。
でも、その時、母に言われた言葉が頭をよぎった。
「彼には血友病のこと、話してあるの?」
あの一言から、私はずっと考えてきた。
保因者かもしれないこと。
遺伝のこと。
将来、子どもを持つことになったらどうなるのか。
そして、それを彼にどう伝えるのか。
考えても考えても、答えが出なかった。
でも、今は違う。
病院へ行った。
先生の話も聞いた。
叶人とも話した。
母にも相談した。
私は、自分がどうしたいのかを決めたんだ。
……よし。
ええい、覚悟を決めよう。
私は一度、大きく息を吸った。
「あのね。」
彼が私を見る。
「うちの両親に挨拶したいって言ってくれたの、本当に嬉しかったんだよ。」
「うん。」
「私も、ちゃんと結婚のこと考えてる。」
彼は黙って聞いていた。
「でも、その前に、あなたに伝えておかなきゃいけないことがあるって気づいたの。」
ここまで言って、少し声が震えた。
「それをどう話したらいいのかわからなくて……。」
私はテーブルの上で両手を握りしめた。
「だから、あの時ちょっと困った顔になっちゃったんだと思う。」
彼は何も言わない。
「結婚が嫌だったわけじゃないの。」
「うん。」
「むしろ、嬉しかった。」
「うん。」
「なのに、変に心配させちゃってごめんね。」
一気に話したせいか、少し息が切れた。
私はカフェラテを一口飲んだ。
冷たいはずなのに、あまり味がしなかった。
彼はしばらく黙って何かを考えているようだった。
私はバッグに手を伸ばした。
中には、あの日病院でもらった冊子がある。
よし、今度こそ話そう。
そう思った、その時だった。
彼が静かに口を開いた。
「もしかしたら、なんだけどさ。」
「……うん?」
「叶人君の病気のことと、何か関係してる?」
…………え?
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
叶人?
病気?
今、何て言った?
私はバッグに伸ばした手を止めた。
心臓がドキッと大きく鳴った。
なんで?
まだ何も話していないのに。
血友病という言葉すら出していないのに。
彼は、どうしてそう思ったんだろう。
私は彼の顔を見つめたまま、何も言えなかった。
彼はそんな私を見て、少し困ったように笑った。
そして、私の返事を待っていた。
――どうして、わかったの?
その言葉が頭の中をぐるぐる回っていた。
私はしばらく、声を出すことができなかった。